
おむすび
息子は塩だけで握ったおむすびが好き。
部活の練習に持っていく軽食と言う名のおむすびは
大きいのを3つ。
はい!と手渡すと
今から一つ食べたいと言う。
おむすびを握る母は
ものすごーく幸せを感じる。
どれだけでもにぎりましょ!
中学でラグビー部に入って
すこし筋肉がついてきたみたいだけど
まだまだマッチ棒。
早く大きくなるといいね。

息子は塩だけで握ったおむすびが好き。
部活の練習に持っていく軽食と言う名のおむすびは
大きいのを3つ。
はい!と手渡すと
今から一つ食べたいと言う。
おむすびを握る母は
ものすごーく幸せを感じる。
どれだけでもにぎりましょ!
中学でラグビー部に入って
すこし筋肉がついてきたみたいだけど
まだまだマッチ棒。
早く大きくなるといいね。

新幹線で上にあげた荷物と自分の腕を
紐でつないでいる人を見た。
彼にとって『安心』とはなかなかハードルが高い。
私のように
家の鍵をかけ忘れるどころか、
ドアに鍵をぶら下げたままにしていたり、
カフェで荷物を置いてトイレに行く人間とは
付き合いたくないだろうな。
しかし、『安心』の基準も定期的に棚卸する必要がある。
なぜなら、エネルギーだから。
何に、どのようにエネルギーを注ぐのかで
人生は変わってしまう。

一般にNGと言われることと自己価値が直結していて
自分を健全にジャッジできてない人は少なくない。
例えば、
『わからない自分』=『ダメな自分』
『できない自分』=『価値がない自分』
といった具合に。
そういった人は評価基準が曖昧なため、
他者の評価もできないケースが多い。
そんな人が部下を持ったら
上司に部下の評価を尋ねられても
「ボチボチです。」とか「頑張ってます。」と
明確な返事ができない。
なぜなら、悪い評価は部下の価値を落としかねないと
危ぶんでいるし、
他者をジャッジするなんて人としてどうだろう…と
さらに間違った思い込みを発動してしまっているから。
そんなことをしていると感じたら、
整理して理解する必要がある。
『わからない自分』=『わからない部分』であって
あなたの価値とは直結しない。
むしろ、あなたには価値があると思っているからこそ、
わからない部分を明確にして
わかるように働きかける必要があり、
『できない自分』も『できない部分』であって、
その人に価値があるからこそ、
『できること』にする為にできない部分を
はっきりさせて取り組む必要がある。
誤解しないでほしい。
『ダメなところ』は『ダメな部分』で
かつ、
『今』ダメなところであって、
未来もずっとそうとは決まっていない。
『わからない』『できない』を仕舞い込むのではなく
『わからない』『できない』をしっかり観て、
『わかる』『できる』へ変える取り組みをやってみようじゃないか。

本当に何が良くて何が悪いかなんて
人生が終わって見ないとわからないものだ。
ダメだと思っていたことが幸いしていたり、
やったー!と喜んでいたことが
振り返ってみるとトラップだったり。
今ある知識だけで判断しては
勿体なさすぎる。
まさに『禍福は糾える縄のごとし』。
『禍福は糾える縄のごとし』とは
幸福と不幸は、より合わせた縄のように交互にやってくるということ。
(デジタル大辞泉より)
しかし不幸だと感じる時は
禍福うんぬん…とは思えないことも重々承知で、
そういう時に役立つのは
『全ては必然。意味がある。』で凌いでみる。
すると、
実際、時間が経つと納得いくことが多い。
『空のペットボトルほど
落ちたら大きな音を立てる』というが、
騒ぎ立てるほど空っぽが見えてしまう。

高校では入学式が行われ、
中学では新学期が始まった。
我が家の子ども達はそれぞれ2年生。
それぞれの学生生活もあと2年。
未来は過去の延長じゃない。
今からの先なんだ。
悔いのないように。
楽しく充実しますように。
初日のお弁当はとんかつで!
あーーーーっ!受講生の皆さん。
1学期の予定を持って帰ってきましたので学校行事と講座が重なっている日は日程を変更お願いすると思います。よろしくお願いしますm(_ _)m

仕事が早いのは決して悪い事じゃ無い。
それどころかクオリティが同じであれば早いほど優秀だ。
ただ、クオリティも高く、
スピードも早いのに残念な時がある。
それは、その早さの目的のベクトルの方向性だ。
顧客のための早さか
チームメイトのための早さか
はたまた、
自分から早く手離れさせるための早さか
などなど。
それは思い通りのスピードでいかなかった時、
明確になりやすい。
心のベクトルが誰を向いているのかはいずれ露呈し、
肝心なところを分ける。

子どもの頃、
掃除ができる子は勉強もできると言われた。
掃除を頑張れば勉強しなくても
成績が良くなるわけではない。
しかし毎日の生活の中に、
きちんとやる、丁寧にやる、一生懸命やる時間を
持つことにより
きちんと、丁寧と、一生懸命な自分に触れる。
そんな自分はやっぱり好きだ。
誇れる。
人は元々頑張りたい生き物なんだ。
そして、
自分が好きと思える時間が日常化すると
自己認知が変わる。
「そもそもな『自分』が好き」に
直結する事例のひとつが掃除なんだろうな。

妹は長く付き合った人と結婚した。
大人同士な二人は入籍を済ませただけ。
二人で彼の親御さんのところに行き
入籍することを伝え、
うちの父の施設にも挨拶に行ってくれたらしい。
その際、
彼がスーツを着て行ってくれたと先日、
妹から聞いて…涙してしまった。
挨拶も不要なぐらい家族ぐるみで付き合ってるし、
彼がどんなに誠実で良い方かわかりきっているのだから
今更、改めて挨拶というのも…といった感じがする程の
関係性なのだけど。
形や格好にこだわる父ではないのも充分理解していて、
スーツを着て施設に行ってくれた彼の、
妹や父を大切にしてくれている気持ちが
ズーンと伝わってきて。
スーツに心震えたのは何度目だろう。
彼の想いや優しさがにじみでていて、
妹は良い人と結婚したなぁと改めて思った。
本当に嬉しい。

あれもこれも…は結局、何も成さない。
ひとつに絞る勇気が必要だ。
なぜ『勇気』かというと、
ひとつに絞るということは
‘ひとつ’以外は捨てることになるから。
しかし、よーく振り返ってみてほしい。
ひとつを選ばなかったばっかりに
何も手に入らなかったということがなかったか。
ひとつに絞ったからこそ、
手に入れられたということがなかったか。
それどころか
‘ひとつ’が手に入ったことにより
次の‘ひとつ’が展開され、
結果、たくさんのものを手に入れられた経験はないか。
『今』という時に
何もかもは同時にできない。
‘ひとつ’という積極的諦めが大切になる。

大切な思考も人は忘れてしまう。
しかし思い出した時は
思考も上塗りされ、更に強くなる。
それが必要なことであればあるほど
強く染み込んでゆく。
忘れては思い出し、
思い出しては刷り込みを
繰り返しながら年輪のように
思考は育っていくんだな。