
本当はどうか VS わかりやすさ
わかりやすさと信憑性は一致しない。
なのに、本当はどうかより
わかりやすさの方が心を占領してしまう。
意識してひとつひとつに向き合わなければ
わかった風で終わってしまう。
「忙しい、忙しい」って
本当に大切なことに時間を割けているのかな。
そんなに慌てて
どこに向かっているんだろう。

わかりやすさと信憑性は一致しない。
なのに、本当はどうかより
わかりやすさの方が心を占領してしまう。
意識してひとつひとつに向き合わなければ
わかった風で終わってしまう。
「忙しい、忙しい」って
本当に大切なことに時間を割けているのかな。
そんなに慌てて
どこに向かっているんだろう。

「自分のために生きていい」は許可で、
まるで自分のためには生きてなかったみたいだし、
「自分のために生きなさい」は、
ずっと自分のためだけに生きなきゃいけない風で、
ちょっと苦しいし、
「自分のために生きればいい」が
自由感があって一番フィットするな。
誰かのために何かしたいと思うのが
人の自然な姿だと感じているけど、
それは自分の幸せのためで、
だからってやっぱり、誰かのためにやったのに喜んでもらえなかった時は
ちょっぴりさみしいし、
下手すると嫌な気分になっちゃうし。
だから、いつも
「自分のために生きればいい。」
といった程度が大事なんだよね。

お忙しい年末に
鉄柱さんが作ってくださった。
いつもいつも、ありがたい。

スムースに運ぶことにも、
また運ばないことにも、
このタイミングでお会いすることにも、
お会いできないことにも、
すべてに意味がある。
私たちの限られた思考範囲では
到底、想像できないシナリオがあるとしか
思えない事ばかり。
仕組まれているとしか思えない。
信じてみよう。
幸せになるよう仕組まれている自分を。

自分の年齢が上がるほど
よりそう感じるのかもしれないが、
自分自身を子どもに感じる大人との出会いは
うれしい!
若く見えることが恥ずかしく感じ、
歳を重ねることに意欲的になれる。
より素敵な大人になろうと思える。
こんな年齢の重ね方をしたいなぁ。

何かと比較しなければ
モノの大きさや形はわからない。
それは自分も同じで、
さまざまな人と接し、比較してみたり、
いろんな思いを感じることで
自分がよりわかる。

誰に指導されるか、
誰から教わるかは大事。
誰に施されるか、
誰に紹介されるか、
誰と時間を共にするかで変わる。
『だれ』は大切。
『何を』『どのように』も全て『だれ』に寄る。

娘からもらった手紙には
『ママがママでよかった!
受験が終わって少しわがまましたら、
お返しがしたい』と書いてあった。
お返しなのに
自分のわがままの後とは正直でよろしい。
しかし、
受験に協力した程度で
感謝されるとは見下されたものだ…。
あなたが社会人になった時が
ママの本領発揮の時だと私は思っている。
それに、『ママへのお返しは
あなたが幸せになることだ』と
お返事には書いた。
私たちの人生は私たちだけで完了しない。
そんな独りよがりに生きられない。
多くの人たちが関わってくれて今がある。
あなたの幸せが誰かの幸せの一部を担っていることを
よくよく知っててほしい。

私たちが見えている範囲が全てだと
決めてしまうのは危険だ。
限界がある私たちが見えるものにも当然、
限界がある。
そこを心得たら、
見えないことを信頼する。
見えないところを信頼することは、
自分を信頼することにつながっていく。

結局、
今は自分がやってきた結果なんだよね。
あせろうが、苛立とうが
これが結果。
結果を踏まえて
さてどうしていくかは
自分が選べることで
今の選択の結果が自分の未来になる。