
出来ない
「出来ない」には、ふたつの「出来ない」がある。
ひとつは実質、無理なこと。
できないことが私たちにはある。
出来ないことを出来ないと言うのは
ある意味、自然なこと。
もうひとつの「出来ない」は「したくない」。
「やりたくないこと」を「出来ない」と言う。
「したくない」を許すと
日常が違った景色に見えてくる。

「出来ない」には、ふたつの「出来ない」がある。
ひとつは実質、無理なこと。
できないことが私たちにはある。
出来ないことを出来ないと言うのは
ある意味、自然なこと。
もうひとつの「出来ない」は「したくない」。
「やりたくないこと」を「出来ない」と言う。
「したくない」を許すと
日常が違った景色に見えてくる。

基盤とは物事を成立させるための基礎となるもの。
生きていくための基盤とは
何なのだろう。
こうやって生きてきた基盤は
何だったのだろう。

自分自身との付き合い方が
すべてのベースとなる。
出来事をどう解釈し、
過去を、今を、これからを
自分にどう説明するかも自分だから。
自分とうまく付き合うことができれば
安定した状態の自分でいることができる。

私にとって「新鮮」は大事。
飽きたら離れ、
別の興味があるものに取り組み、
それに飽きたらまた別の夢中になるものに取り組む。
そうしているうちに
当時は飽きてしまったものが
新鮮に感じられ改めて取り組む。
長い時間をかけてローテーションすると
私の中の「新鮮」を保てる。

振り子は右に大きくふれば、
左に大きくふれる。
するとまた、
右に大きく揺れ戻りだんだんと揺れ幅は小さくなり、
自然と中央に収まる。
空気抵抗や重力でそうなるんだろうが、
揺れている振り子が突然真ん中で
ピタッと止まることはない。
それは不自然。
自然には抗えない。
徐々に徐々に。

事実は何なのか。
本当のところは誰にもわからない。
当事者だってちゃんと理解していない可能性も高い。
例えば、偉人。
基本、調べた人や本を書いた人からの二次情報。
印象を得た人のフィルターを通った印象でしかない。
あの世で当事者は「違うんだよなぁ〜」と
思ってないかな。
直接的な一次情報でさえ、
その人の本質を捉えたものとは限らない。
人は多面で変わっていくものだし、
自分の知り得る範囲でしか判断できない。
わかっていないということを
心に留めておかないといけない。
わからないなりに進むとなると
自分のwantしか頼れるものはない。
が、
自分のwantさえも本当のところはわかっていない時がある。
やっぱり、
本当のところは誰にもわからない
というのが本当のところじゃなかろうか。

あたしゃ、弱い。
嫌なことはすぐに先延ばしにする。
もっと嫌なことが出てくると
例え、最も嫌なことに緊急性があっても
それより嫌じゃないことに手をつける。
いっつも最も嫌なことが置き去り。
50年以上こうなんだから
きっとこの先も弱いまんまなんだろう。
もうそれでいいや。
私なりにやっていこう。

人は比べて出来事を判断する。
優しいことと比べれば
何だって難しことになるし、
難問と比べれば
ちょっと難しいことだって簡単なことになる。
比べるものの重さによって
天秤は上がったり下がったりする。

『夏服への移行期間等はありません。
自分の体調に合わせて制服は選んでください。』
高校から来た案内メール。
問い合わせが多かったらしく
改めてメールが届いた。
それが本当だよなぁ。
それぞれに体質も体調も違うんだから
夏服や冬服は自由に変えていいよね。
ルールは効率をあげたり、
迷いがなくなるためのものだから、
その領域を考えないと
自己判断能力を弱らせるな。

なぜ、ここに?
ぬいぐるみのラスカル?
公園に忘れていたのを、
踏まれないように置いたのかな?!
このラスカル、妙に楽しそう!
出会えた私も妙に楽しい。
以前、私の友人が自宅マンションのエントランスで
「この辺でペンギン見ませんでした?」と
尋ねられたと言っていたが
話を聞いているだけで妙に楽しかった。
それに近い感覚がある。