手と手を組んでみる
手と手を組んだとき、
どっちの親指が上になる?
右親指が上の人は左親指を、
左親指が上の人は右親指を上にしてほしい。
つまり、いつもと違う組み方をしてみる。
とっても気持ち悪いよね。
手を組むことで言えば
どっちの親指が上だろうが、
手を組んでいるということ自体に変わりはない。
しかし、異様な気持ち悪さがつきまとう。
不慣れな選択のチョイスはこれと同じで、
あなたにとってベストな選択だとしても
いつも選ばない方の選択をすれば
気持ち悪いものなんだ。
手と手を組んだとき、
どっちの親指が上になる?
右親指が上の人は左親指を、
左親指が上の人は右親指を上にしてほしい。
つまり、いつもと違う組み方をしてみる。
とっても気持ち悪いよね。
手を組むことで言えば
どっちの親指が上だろうが、
手を組んでいるということ自体に変わりはない。
しかし、異様な気持ち悪さがつきまとう。
不慣れな選択のチョイスはこれと同じで、
あなたにとってベストな選択だとしても
いつも選ばない方の選択をすれば
気持ち悪いものなんだ。
別の選択をしていたら違う今があったのかも…と考えがちだが
それは存在しないのかもしれないな。
何をどう選んでもこうなっていたというか。
これをやる必要があったというか。
この人生で避けては通れない、
必達課題だと考えると逃げていても仕方ない。
あなたがクリアーできない課題は来ないはず。
とっとと課題に向き合って
終わらせて次に行こう!
例えば、
ギャンブルにハマってしまってる人を見ると、
きっと過去に大当たりを経験した人なんだろう
と想像できる。
当たった時の興奮や
一瞬にして大金を手にする感覚などを知ってしまって
働くことが
とても面倒なことに感じてしまっているのかもしれない。
他人のことなら、
最初に当たったのがラッキーで、
「普通」を改めて
解釈し直さないといけないことがよくわかる。
「ラッキー」を「普通なこと」と思うと
「普通のこと」がしんどく感じるから。
こういうことが自分の人生にも起こっているとしたら
どうだろう?
苦しむと苦しんでいる人の気持ちがわかり、
損なうと損なった人の気持ちがわかる。
強い立場になると強い立場の人の気持ちがわかり、
弱い立場になると弱い立場の人の気持ちがわかる。
どんな気持ちだろうが
その気持ちになる人にも
ちゃんと理由があるんだよね。
経験しないと本当のところは掴めないし、
掴めたからって通り過ぎれば忘れてもしまう。
ココんとこ、忘れないようにしていたいね。
私にとっては
「何」を「どこ」でやるか以上に
「誰」とやるかが最も大事。
ただ、「コレをココでやりたい」には
価値観が近い人が集まるはずだから
自分の「〜したい」を大切にすると
自ずと過ごす人たちが決まってくる。
「誰と」は大切な環境で、
朱に交われば赤くなるものだから
丁寧に選びたいね。
自分を変えるやり方にはいろんな方法がある。
そのひとつは
「自分が求めているものを先に周りに与える」
という方法。
打算的ではなく、
「自分が欲していることならきっと周りの人も欲しているだろうから、
なら、お先にどうぞ!」的な感じ。
遠回りに思えるかもしれないが
以外と近道なんだよねぇ。
それに、
今まで見えなかった世界が回見えるし、
その効用は想像以上に大きい。
お先にどうぞ!は副交感神経も有利にするらしいしね。
いやいや無理でしょ。
そこまでは…
きっとダメなんだろう。
みたいな声を頭の中で聞いてないだろうか。
そうなんだよなぁ、
自分が自分をできないままにしてるんだよ。
シンプルだけど意外と難しいんだよね。
素直に感じることに慣れてなかったり、
正直を伝えることに対して恐れがあったり。
孤独になるんじゃないかという怖さが
自分の正直な気持ちを隠してしまったのかもしれないね。
ただ、
あなたがあなたの気持ちを素直に感じて
正直に伝えなければ
あなたは誰をやっているのだろう。
顔つきなのか目つきなのか
何が変化するのかはっきりしないが
まるで別人のようになることさえある。
「40代を過ぎたら自分の顔に責任を持て」や
「顔は心を移す鏡」と言うが、
積み重ねたものが滲み出るんだろうなぁ。
いい顔になっていきたいなぁ。
ふと頭をよぎる人や言葉、風景がある。
懐かしいシーンだったり、
ビクッとするような言葉だったり
思い出すたびにこちらも嬉しくなるような笑顔だったり、
冷たい視線だったり。
一瞬で消えてしまうのだけど
そこに私たちは反応する。
懐かしいシーンであれば気持ちが優しくなり、
ビクッとするような言葉であれば緊張が走り、
嬉しくなるような笑顔であれば思わず頬が緩み、
冷たい視線なら身が固くなる。
今、起こってるのことではないのにね。