不安定なとき

2026.07.03.

言葉に全てできるほど、人生は単純でもない。 vol.6104

言葉にできるほど、人生は単純ではないんだと思うんです。
言葉にするということは、複雑な現実の中から、
ある部分を切り取ることじゃないですか。

切り取らなければ、人には伝えられない。
けれど、切り取った瞬間に、
こぼれ落ちるものがある。

言葉は、
経験を理解するための入口にはなるけれど、
人生の結論にはならないんですよね。

ラベルは、人を守ることがあります。

自分に起きていることを理解できたり、
苦しみから抜け出すきっかけになったりすることもある。

一方で、
その人が生きてきた時間や、
選んできたこと、
愛憎や葛藤、そこで獲得した力まで、
一枚の言葉で覆ってしまうこともあるんですよね。

自分の人生を、
他人が理解しやすい単純な物語にしてしまうことは
危険です。

同じように、
他人の人生を、
自分が理解しやすい単純な物語にしてしまうことも
危険だと思うんです。

人の中には、
相反するように見えるものが、
いくつも同時に存在しています。

好きだけれど、許せない。
苦しかったけれど、得たものもある。
逃げたかったけれど、自分で残ることを選んだ。

どちらか一方だけが、本当じゃないんですよね。
いろいろなものが共存している。

そのすべてが、
その人の人生なんじゃないかと思うんです。

2026.06.30.

一生懸命に変わりはない  vol.6101

たとえ、それが軽率な行動に見えても、
慎重すぎて、進みが遅いように見えても、
その人が一生懸命であることに、変わりはないんですよね〜。

その人の中で何が起こっていて、
何を考え、
どうすべきだと思っているのかなんて、
簡単にはわからないじゃないですか。

人にはそれぞれ、
歩いてきた過去がありますから。
それぞれの現実に向き合い、
悩み、考えながら、
自分なりのやり方をつくってきたんですよね。

もちろん、そのやり方が
その時の状況に合っているかは、
考える必要がありますが、

その行動だけを見て、
一方的に決めつけることはできないなぁと思うんです。

例えば、軽率に見える人も、
動けないように見える人も、
その人なりに悩み、考え、選択している。

表れ方が違うだけで、
一生懸命であることに変わりはないんですよね。

2026.06.02.

心の声  vol.6073

自分の心の声って、影響力半端ないのにないのに
思っている以上に意識できてないんですよね〜。
その声に慣れ親しんでしまっているからなんです。

私たちが考える時、
少なくとも、もう一人の私と会話をしていて
私たちの感情や思考に大きく影響しているのに
意識できてないって勿体無いですよね。

例えば、
上司に注意された時、

冷たく「これで昇格できないな」
と言ってくる自分がいた場合と、

「注意するって思ってくれている証だぞ」
と言ってくる自分がいた場合には

そりゃ、注意されたことへの反応は
変わるじゃないですか。

同じ出来事でも、
その後の気分や行動がまったく変わってしまうのは、
その出来事をどう意味づけてするかに
心の声が関係しているからなんです。

ただ、この心の声は厄介です。

だって、あまりにも慣れ親しみすぎていて、
それが「自分の声」なのか、
過去に誰かから言われ続けた言葉なのか、
社会や環境の中で身につけた思い込みなのか、
区別がつきにくくなっているからです。

「ちゃんとしなきゃ」
「迷惑をかけてはいけない」
「もっと頑張らないと認められない」
「どうせ私には無理」
「弱さを見せてはいけない」

こうした声が、
いつの間にか自分の中に住みついていて、

しかも、それを意識することなく、
反応してしまっている。

だからこそ、まず必要なのは、
「ポジティブに考えよう」
と無理に思い込むことでも、
心の声を消すことでもないんですよね。

自分の心の声に気づくことです。

そこに気づくと、
自分の反応を
少しずつ変えていくことができます。

すると、自分との関係も
少しずつ変わっていくんですよね。

 

2026.05.28.

「自分を認める」って  vol.6098

「自分を認める」って、単に“私はこれでいい”
と肯定することではなくて、
自分がどこで納得し、どこで違和感を覚えるのかを、
自分の感覚で確かめ直すこと
なんじゃないかと思うんですよね。

子どもの頃に教わる道徳って、
基本的には美しいんですよね。

「人の悪口を言わない」
「嫌なことでも頑張る」
「友達は多い方がいい」
「自分がされて嫌なことは人にしない」

どれも間違ってはない。

ただ、大人になってわかるのは、
こちらの誠実さや優しさを、
ちゃんと尊重してくれる人もいれば、
善意ある人だけじゃなく、
利用する人もいるってことですよね。

だから、成熟って、
「いい人でいること」ではなくて、

自分の善意を、
どこまで差し出すかを選べるようになること

なのかもしれないなって思うんです。

たとえば、悪口を言わないことは大事だけど、
「問題のある人について、必要な情報共有をすること」
まで禁止してしまうと、
自分や誰かを守れなくなるじゃないですか。

嫌なことでも
頑張ることは尊いけれど、
「自分を壊してまで我慢すること」
まで美徳にしてしまうと、
人生が苦しくなる。

友達が多いのは良いことかもしれないけれど、
「誰とでも仲良くしなければならない」と思うと、
自分の境界線がなくなる。

だから、
どの線で気持ちよさを感じ、
どの線で気持ち悪さを感じるのか
という自分の境界線って大事だと思うんですよね。

これはたぶん、
自己信頼の問題なんですよね。

“私は何を大切にしたいのか”っていう。

写真は紫陽花です。
もう咲き始めていますね〜。

2026.05.21.

自分を優先する罪悪感  vol.6091

自分を優先する罪悪感ってありません?

インドの列車の中で、修行に向かう日本人の方と
一緒になった時の話です。
当時、20歳だった私の、
理想と現実のギャップの話をしていたら
その方が
「人は神様みたいになれるのかな?」
と言ったんですよね。

「そんなわけないじゃないですか!」と
すぐに答えたんですが、
「それを目指してませんか?」
と問われたのを思い出したんです。

 

子どもの頃に、どこかで
「いい人=自分の欲や都合を持たない人」
「正しい人=いつも人を優先できる人」
「成熟した人=怒らない、嫌わない、断らない人」
みたいなイメージを持ってしまうことってありますよね。

それって、ある意味で
“人間”ではなく“神様”を目指している
感じなんだと思うんです。

だから、大人になってから、

「私は何を大切にしたいのか」
「私はこれは嫌だ」
「私はこの人とは距離を置きたい」
「私はこれ以上は引き受けたくない」

と考えようとすると、
まるで自分がわがままになったような、
心が狭い人間になったような、
冷たい人になったような罪悪感を感じる。

素直な子ほど、
神様みたいに、誰にでも平等に優しく、
いつも正しく、いつも寛大で、
何も傷つかず、何も求めずにいることを
無意識に目指しちゃうんですよね。

そう求める周りの人の期待に応えたい
と思っているのかもしれません。

でもそれはできない。

人間だから、疲れるし、嫌だと思うし、腹も立つし、
大切にしたいものに優先順位が出る。

だから、
「私は何を大切にしたいのか」と問うと
罪悪感が出るのは、
心のどこかにまだ、

“自分を優先する私は、いい人ではない”
という古い基準が残っているからかもしれない
って思うんですよね。

でも本当は、
自分を真の意味で大切にすることと、
人を真の意味で大切にすることは、
繋がっていると思うんです。

自分の境界線がわからないまま人に尽くすと、
あとで疲れが出て、
相手への恨みや妬みにつながってしまうことって
あるじゃないですか。

今ならわかるんです。

人の成熟って
欲や感情を消すことじゃなく、
それを持ったまま、どう誠実に扱うかを選ぶこと
なんじゃないのかなって。

神様になることじゃなくてね笑。

自分を大切にすることを考えて
罪悪感が出たときは、
「他者の期待に応えるのではなく、
自分の期待にどう応えていくかを学んでいる」
神様になるのをやめて、
人として成熟するトレーニングをやっている。

くらいに見てあげると、
本当の意味で自分に優しくなれる気がします。

 

 

写真の金平糖みたいな丸い花は
ヒメツルソバ(姫蔓蕎麦)というらしいです。
よく見かけますが、初めて名前を知りました!

2026.05.20.

自分に厳しくすることと真剣さ  vol.6090

私、けっこう緊張しーなんです〜。
本番どころか、下手すると練習でも
力を発揮できないタイプ笑。

そんな自分をよーく見てみると、
「本番と思ってやらないと!」って
自分に語りかけてるんですよ〜。

学生の頃、よく部活で
「本番と思ってやれ!」って言われてたから
本番と思ってやること=真剣にやることだ
と誤解していたのかもしれません。

だから、練習するたびに、
心の中で小さな本番が始まるんですよね〜笑。

例えば、

「これ覚えてる?」
「これ、ちゃんとできる?」
「これで本番、大丈夫?」

みたいに。

でも、この問いかけ方って、
集中は生むけど、
同時に身体を固くするんですよね。

だから、普段からずっと
“試合本番の手前”みたいな状態になって
疲れてしまう。

そうしていると練習さえ、
だんだん嫌になってくるんですよ〜。

考えてみると、なにか変ですよね。

“学んでいる”つもりで、
内側ではずっと“審査されている”感覚になっているって。

本番に弱い人は、
普段から自分の中で
本番をやりすぎているのかもしれませんよ。

 

写真はいただいた夏みかん?です。
甘さの中に酸味があって、美味しかったです!

2026.05.17.

苦手と得意の違い  vol.6087

得意なものとそうでないものって、
やっている時の自分への声かけが違うんですよね〜。
得意分野だと自分に対する言葉がけが、わりと優しいんです。

「よくやってる」
「小さいけど、ちゃんと結果が出てる」
「前より少しうまくなってる」

そんなふうに、ちゃんと自分を労っていたり、
少し先の希望に目が向いていたりします。

だから、たとえうまくいかないことがあっても、
「まあ、こういう時もあるよね」
「次は少し変えてみよう」
と思いやすい。

でも、苦手意識のあることになると、
急に自分への語りが厳しくなるんですよね。

「こんなんで本当に大丈夫なの?」
「全然、進歩してないじゃん」
「またできなかった」
「やっぱり向いてないのかも」

そんなふうに、まだ結果が出ていない部分ばかりを見てしまう。

本当は少し進んでいるのに、
その小さな変化を感じ取る前に、
自分で自分にダメ出しをしてしまうんです。

これって、結構大きいなと思うんですよ。

だって、
同じように努力していても、
自分にどんな言葉をかけているかで、
感じ方がまったく変わってしまうじゃないですか。

得意なことは、
前に進んでいる実感を拾う言葉かけなのに
苦手なことは、
できていない証拠ばかりを拾う言葉かけなんだから。

もしかすると、
苦手だから否定的な言葉が出るのではなくて、
否定的な言葉をかけ続けているから、
ますます苦手に感じてしまうのかもしれません。

もちろん、苦手なものが
急に得意になるわけではないですが、
自分への語りかけを少し変えるだけで、
続ける苦しさは、変わる気がします。

「全然できてない」ではなく、
「昨日より少し慣れたかも」

「これで大丈夫なの?」ではなく、
「今はまだこれくらいでいい」

「また間違えた」ではなく、
「ここがわかれば、次は少し進める」

そんなふうに、ほんの少しだけ
自分にかける言葉を変えてみる。

自分を甘やかすというより、
ちゃんと見てあげる感じです。

できていないところだけではなく、
やったことも見る。

進んでいないように見える時でも、
そこから逃げずに
踏みとどまっている自分、
不安になりながらも、
続けようとしている自分を見る。

苦手なことに向き合っている時ほど、
なぜか私たちは自分に厳しくなりがちです。

でも本当は、苦手なことをやっている時こそ、
いちばん労いが必要なんですよね。

「よくやってる」
「ちょっとだけど、進んでる」
「今はまだ実感しにくいだけかも」
「向き合っているだけで、十分すごい」

そう言ってみるだけで、
心の中の空気感が少し変わるかもしれません。

と考えると、苦手を克服する第一歩は、
もっと頑張ることではなくて、
自分への語りかけに気づくことなのかもしれませんね。

自分にどんな言葉をかけているのか
その声に耳を傾けてみる。

そして、もしその声があまりに厳しかったら、
得意なことをしている時の自分の声に近づけてみる。

それだけで、苦手なこととの関係が、
変わり始める感じがします。

2026.05.14.

出来るようになっている実感がないとき  vol.6084

毎日続けていても、出来るようになっている実感が
少ないことってありません?
例えば、筋トレしてても目に見えた変化がないとか、
勉強をしているのに点数が目に見えて上がらないとか。

頑張ってる感と能力向上に
ズレがある状態。

そうなると結構、揺れると思うんですよね〜。
本当にこれをやってて向上するのか?
やり方は間違ってないか?って。

こういったときの不安って
できないから不安というより、
本気で変わりたいから不安なんですよね〜。

理解することとやれることには
ギャップがあるじゃないですか。

特に成果に結びつくのに時間がかかるものは
この、目に見えて結果が出ない自分との
向き合い方が大事だったりします。

もっと追い込むというより
この停滞感込みで前進している
と理解することなんですよね〜。

だって
「今までの努力の仕方では足りないのかも…」と
感じているわけですよね。
ある意味、とうとう
本当に変わり始めるドアの前に
立てているようなものなんです。

さらにアクセルを踏むより、
少し休んでもいいかも知れません。

人は休んでいる間に、
整理や定着が進みますから。

 

写真は、お店はお休みだったんですが、
通り沿いの大きなアーチ窓の向こうにきれいな花が飾られていたものです。

2026.05.06.

恐れには段階がある  vol.6076

恐れには、段階があるんですよね〜。

最初は、ぼんやりとした違和感です。
うまくいかない理由がわからない。
なぜか動けない。
なぜか周りの人が気になる。

そして薄々、
その奥にあるものに気づき始めます。

「もしかして、自分は優秀じゃないのかもしれない」
「成功できないのかもしれない」
「人としてどこか欠けているのかもしれない」

けれど、多くの人は
ここで無自覚に止まってしまうんですよね〜。

だって、その一歩先に進むことは、
自分の前提を揺るがすと思っているから。

「そんなはずはない」
「いやいや、きっと違う」
「まだ本気を出していないだけ」

内側では、
こうやって争い、抵抗し続けている。

——そうじゃない自分であろうとする力と、
——そうかもしれないと感じている現実との間で。

この“曖昧な葛藤”が、
最もエネルギーを消耗させます。

であるなら、あえて言葉にして
言い切ってしまうことが効果的です。

「私は、大して優秀じゃないかもしれない」
「私は、友達が少ない」
「私は、成功に時間がかかるタイプだ」

一見すると自分を下げているように見えますが、
実際には、その逆なんです。

曖昧だったものが、確定し、
争っていたことに終止符がつく。
すると驚くほど、
本来のエネルギーが戻ってきます。

それに、認めることは、
諦めることではないんですよね。
むしろ、現実に直面可し、
「起点」なるんです。

優秀ではないかもしれない。
だからこそ、どう戦おうか。

友達が少ない。
だからこそ、どんな関係を築きたいか。

時間がかかる。
だからこそ、どんなペースで進むのか。

こうやってやっと、
人は“自分の人生”をリアルに考え始めれます。

恐れの正体は、しばしば
「そうであるかもしれない自分」です。
そして多くの人は、その可能性と戦い続けています。

けれど、その戦いをやめれば、
恐れは力を失うんです。
もう争う必要がなくなりますから。

「私は、そうかもしれない」

認めることは、厳しくも諦めでもありません。
むしろ、
とても現実的で、強さを持っています。

そこには、どう見られたいとか、
過剰な期待もありません。
ただ、“今の自分”があるだけです。

その地点に立てたら、

「じゃあ、ここからどうする?」

という問いを、本当の意味で持つことができます。

恐れをなくそうとするのではなく、
恐れの核心まで言葉にする。

それができたとき、
人はようやく、消耗から抜け出し、
本来の力を発揮し始めるんですよね。

写真は麦畑です。
むぎが揺れる音がなんとも心地よかったです。

2026.04.27.

どの無理を選ぶか  vol.6067

無理をするか、しないか。
これって意外と難しいですよね笑。
できるかどうかで選んだり、「〜べき」的に選んだり。

無理をするべき時というのは、

・今ここで踏ん張れば、次が楽になる
・ここを越えないと、流れが止まる
・やらないと後悔が残る

こういう“流れの節目”なんだと思うんです。
未来の自分にバトンを渡すための無理って
言ったらいいのかな。

こういう無理は、
やった方がいいというか、
むしろ、やらなかったら後で
別の意味で効いてきます。

一方で、無理をしない方がいい時もありますよね。

・長期戦
・消耗するだけで、次に繋がらない
・続けるほど、ズレていく

こういう時に無理しちゃうと、
未来の自分の足を引っ張る無理になっちゃいますよね。
これは、やらない方がいい。

大事なのは、
「無理ができるかどうか」
じゃないんですよね。

日本人はつい、

・まだできるからやる
・頑張ればいける気がする
・無理しないなんて本気じゃないみたい

で、無理を選びがちなんですが、
それだと消耗しちゃいます。

無理をすること自体は、悪くない。
でも、“どこに無理を使うか”が大事で、

短期で踏ん張る力と
長期で積み上げる力を
行き来しながら、

「ここは行く」
「ここは引く」

その判断ができる力をつけていくことが、
大事なんだと思います。

どの無理を選ぶか、
どんな時に、
どの無理の使い方がベストなのか、
を丁寧に見ていきたいですね。