土用みたい
土用は次の季節へ移る前の調整期間のようなもの。
今は春の土用で夏へ移る前の調整期間。
季節に限らず、
何事も急には変わらない。
土用のように
今までの季節と次の季節が
入れ替わるような時期があって、
身体や心を慣らしつつ、
少しずつ少しずつ、
気づけば変わってるんだよね。
土用は次の季節へ移る前の調整期間のようなもの。
今は春の土用で夏へ移る前の調整期間。
季節に限らず、
何事も急には変わらない。
土用のように
今までの季節と次の季節が
入れ替わるような時期があって、
身体や心を慣らしつつ、
少しずつ少しずつ、
気づけば変わってるんだよね。
安定感なんだよなぁ。
根っこのところの安定感。
外見や見た目でもなければ、
何が出来るとかじゃないんだよ。
もちろん、年齢分積み重ねるから
後々は自信や貫禄につながっていくんだけど。
安定感がまわりに伝わるから人が集まるし、
人が集まってくるからさらに安定する
といったスパイラルに入っていくだよね。
その安定感を
自己尊重感とか自尊心って呼んでるんだよね。
これはダメ、
こんな風だからダメ、
だから私はダメなんだ…
とダメ出しばかりしていたら
本体の自分だって自分がダメだと思い込むさ。
ダメと厳しく叱り続けてきたのに
やっぱりダメなら、
そのやり方を変えてみる必要がある。
ひとまずは真逆をやってみよう。
これもOK
こんな風なこともOK
だから私はOKだ!
もっとダメになる感じがするだろうけど
違うんだよ。
やってみればわかる。
OKの力を感じて!
この程度なのさ…といった投げやりな了承ではなく
在ることがわかる優秀さ。
人は一体、無いとか在るとか、
何を根拠に判断しているんだろう。
十分持ってるとしたら
やることが変わるんじゃないのかな。
もう不足はない。
そう感じたらあなたは何をするだろう。
もっと早く気づくべきだった…
遅かった…
と思っても
実は遅くないんだよね。
いつもそうだった。
後悔した時点からでも手をつければ
十分な効果を発揮する!
普段、生活をしていると
私たちの身近に「死」はない。
頭ではいずれ終わるとわかっていても、
限りがあることにハッとするのは
大切な人ともう二度と逢えないことに直面化した時や
その想像がリアルにできる時。
私は母が亡くなって初めて「死」を実感した。
自分の「死」に直面化した訳ではないので、
何もわかってないのかもしれないけど
いのちに終わりあることをリアルに感じた時ほど、
自分にとって必要なことや本当の願いが
はっきりとする機会はないのかもしれない。
すると、
病気や怪我というのは
やっぱり大きなギフト的な面があるってことだよね。
チャンスなんだよね。
心が触れるものも含めて
直接、自分に触れるものは大切にしたい。
例えば、言葉。
なんか…わざとらしく感じるから
アファメーションとかはあまり得意じゃないけど、
触れる言葉は大切にしたいと思っている。
影響を受けるとわかっているのに
それをぞんざいに扱う気にはなれない。
例えば、付き合う人。
断れない付き合いも当然あるけど、
誰と付き合うか、
誰と長い時間を共にするかは選びたい。
付き合う人によって変わる一面が
人にはあるのだから
良い影響を与えあえる人と付き合いたい。
例えば、環境。
ミニマリストではないし、
それを決して望んでもないけど
整理された環境でありたい。
気がかりがたくさんあるような状態では
エネルギーが削がれるので
どこに何があるか、
今、何が必要かがすぐにわかる自分でありたい。
普段、無自覚にいろんなものに触れている。
ひとつひとつ、整えたいね。
どんな自分であっても
「自分を引き受ける」ということにおいては
誰もが平等で、
年齢も性別も立場も何も関係ない。
仮に、
あの立場だから…
あの年齢だから…
と許されるとしたら
それは温情ではなく侮辱に近いと私は思う。
責任を取るということが
「自分を引き受ける」力があることなら
責任を回避するというのは
自分に力がないことを認めたこと。
意地でもいい、
「引き受けないとだけは言わない」と
決めることが大事だよね。