誰のための選択?
周りのことを考えすぎてしまう人がいる。
バランスが壊れることを恐れる人がいる。
それは家族のためだったのかもしれない。
クラスのためだったのかもしれない。
その場の雰囲気が優先だったのかもしれない。
自分のために選んでいいんだよ。
私は私のために、
あなたはあなたのために
生きていいんだよ。
周りのことを考えすぎてしまう人がいる。
バランスが壊れることを恐れる人がいる。
それは家族のためだったのかもしれない。
クラスのためだったのかもしれない。
その場の雰囲気が優先だったのかもしれない。
自分のために選んでいいんだよ。
私は私のために、
あなたはあなたのために
生きていいんだよ。
まるで膿みが出るように弱点が露呈する。
弱点が露呈したことは問題ではない。
問われているのはその後。
改善するもよし、
放置するもよし。
さて、どうする?
同じ行動に見えても、
その行動の土台が違うと、
プロセスも結果もちがっていく。
例えば
土台が喜びであれば選択になるが、
土台が恐れであれば反応になる。
反応は自ら選んでいるようで選べていない。
だから、
同じパターンを繰り返してしまう。
うまくいかなくなると調整ができない。
そういった時は
その行動の土台には何があるかを見る必要がある。
落ち込むことも、
傷つくことも、
ショックを受けることも、
後悔することも、
怒りが治らないことも、
決して悪いことではない。
あなたが特別ダメなことでもない。
生きていれば自然なことで、
そう感じれるのは力なんだ。
人がそういったネガティブな感情を避けるのは
そう言った感情への対処を知らないだけ。
対処を知るには
まずはネガティブな感情を自然なことだと
受け入れることから始まる。
マッサージに行くと、
「凝りがすごいですが、凝りだけですね。」
とマッサージの方が言う。
凝り以外に何があるか尋ねると、
凝りと張りがセットが最も大変らしい。
「お客さん(私のこと)は
張りはなく、凝りだけだからいいんです。
それに、足先までポッカポッカでしょ。
つまり、代謝がよく免疫力が高いってこと。
メンテナンスしたらすごく良くなりますヨォ!」
とお褒めいただいた。
お店を出るとじんわり嬉しくなってきた。
いや、確実に嬉しい。
そういや最近、褒められてないなぁ。
この年だから、
褒められる側より褒める役の方が多いのは当然だけど
自分を労うことが少なくなっていたのかもしれない。
人の優しい言葉は
自分で傷つけた自分の心の傷によく染みる。
愛情を示すことと
世話を焼くこととの境界線は曖昧だ。
律しているラインと厳しすぎる境界線も、
賢さとずる賢さの境界線も、
優しさと甘さの境界線も、
自分のためのと他者のためのの境界線も
全部あいまい。
境界線は曖昧すぎると自分が犯されたり、
相手を犯してしまったりするし、
厳密すぎると苦しくなったり孤独を感じたりしてしまう。
その時々で変わる境界線もあれば、
一旦引いたら、変わらない線もある。
ただ、
そんなあいまいな境界線をどこに、
どの程度の強さで引くのかを決めるのが常に自分であることに曖昧さはなく、
そこはハッキリしている。
確か
「苦しみは、その意味を見出されたときに苦しみではなくなる。」
と言ったのはフランクルだった。
苦しみだけじゃないと思う。
例えば、ピンチはその意味がわかった瞬間に
チャンスに変わるし、
例えば、この出来事が起こった意味を理解した時、
それはただの出来事ではなくなる。
そういった『仕組み』がわかるなら、
全ての出来事に意味を見出してみよう。
運が良いとか悪いとか、
好きだ嫌いだを超えて、
いつも意味を考えるんだ。
大切なことに気づけるようになる。
「嫌な人」が「嫌」なのではなく、
「誰かを嫌と思う自分」が「嫌」なんだよね。
なぜか、嫌な人を思い出し、
その人の嫌な行為を思い出してしまう。
そんな自分、嫌な人が気になる自分が嫌なんだ。
人は誇れる自分に触れていたいものなんだ。「自分って悪くないなぁ」と思える自分でありたいんだよね。
嫌な誰かがいる以上に、
人を嫌う自分が嫌い。
突然の恐怖や差し迫る危機といったストレスへの対処は
「逃げる」か「戦うか」だ。
しかし敵が自分の場合、
むやみな逃げも無駄な戦いも不要だ。
「逃げずにしっかり戦える自分」にラクになるために
どう工夫するかだ。
少しだけ止まって
工夫のために知恵を絞ってみよう。
結局、
今は自分がやってきた結果なんだよね。
あせろうが、苛立とうが
これが結果。
結果を踏まえて
さてどうしていくかは
自分が選べることで
今の選択の結果が自分の未来になる。