何を見ていたのだろう。 vol.5226
なぜか見ないようにしてしまうことがある。
確かに見えていて
たくさんのヒントがあったはずなのに…
無視したというか、
見なかったことにしてしまうこと。
そうやって私たちは
自分にとって都合の良い事実をピックアップしたり、
都合の悪いものを無視したり、
自動的に事実を選別する。
まずは事実を正確に認識すること。
それは誰にとっても当たり前に行われない可能性があることを
意識しておこう。
なぜか見ないようにしてしまうことがある。
確かに見えていて
たくさんのヒントがあったはずなのに…
無視したというか、
見なかったことにしてしまうこと。
そうやって私たちは
自分にとって都合の良い事実をピックアップしたり、
都合の悪いものを無視したり、
自動的に事実を選別する。
まずは事実を正確に認識すること。
それは誰にとっても当たり前に行われない可能性があることを
意識しておこう。
50代になって思うことは大きくふたつ。
ひとつ目は50代は思った以上に楽しい♪
50代が楽しいとは
誰も私に教えてくれなかったんだよな。
自分への期待値が下がるからか、
諦めがつくことが多いのか、
若い頃より俄然生きやすい。
ふたつ目は、
これまでを振り返ると
嫌なことやトラブルが何とも有難い出来事なこと。
最悪だと思っていたものほど
あれがあってよかった〜♪と思える。
「問題は解決するのではなく、
問題によって私たちが解決されていく」
と言ったのはロバート・キーガンだったかな。
この言葉が心の底から腹落ちする。
問題によって私は解決されてきたし、
これからも問題によって私たちは解決されていくんだ。
使う接続詞によって次の言葉がある程度
規定されてしまうから。
例えば「私、昨日パスタ食べたんだよね。」と
言った後の接続詞で考えてみよう。
「それで?」と言われれば、
それでどうしたかといったその後の話をするし、
「だから?」と言われれば、
その後パスタを食べたことが
どう影響したかを探してしまうし、
「ということは?」と言われれば
まるで今日はパスタは食べたくないと
言わなければならない気がしてくる。
こういった接続詞の影響は自己内対話でも起こっている。
自分が使いがちな接続詞は
すでに結果を含んでいるのかもしれない。
「開き直る」ことは
どこか悪い印象がある。
しかし、
自分を強くするためには
悪くない手段だ。
「開き直る」ことは「受け入れる」ことと同じだから。
一旦ゆっくりしたら始めるのに勇気が要り、
一度続けはじめたら、
今度は休むことに勇気が要る。
物理だけでなく、
私たちの心にも「慣性の法則」があって、
状況を変化させることにものすごく抵抗が出てくる。
心の「慣性の法則」を乗り越えるポイントは
このことを理解し、意識しておくことだ。
なぜか私たちは自分の本当の思いを伝えずにいる。
本当の想いは自分の中の中にあって
そのことに自分が気づいていないから
当然、相手にも伝えていない。
自分の思いに気づいていたとしても
口にせず期待だけしている。
その一方で、
伝える時はわかりにくいほど遠回りか、
堪忍袋の尾が切れたように怒り混じりに伝えてしまい、
本当の思いを普通に伝える手段を学んでいない。
私たちは本当の思いを口にせず、
いったい何を話しているのだろう。
あっという間に節分、立春を迎える。
昨年末の冬至から
昨年と今年が入れ替わる約1ヶ月を過ごしてみて
どうだろう?
今年の方向性が何となくでも見えてきただろうか?
流れを読んでみよう!
今年のテーマみたいなものが感じられるから。
捉えどころがないように感じる複雑な課題も、
切り口を絞って考えると
その部分の答えが見えてくる。
枠組みを決めてみると整理が進む。
よくわからなくなったら
書き出してみる。
大概、やり慣れるまでは
初めてのことはよくわからないものさ。
だけど、
やるほどに見えなかった世界が見えるようになっていく。
筋肉はすぐに馴れる。
常に違う刺激を与えないと
強くならない。
私たちもすぐに馴れる。
今が普通になる。
常に違う刺激を与えないと
強くならない。
新しい刺激を得る、
不安定に身を置くとは
そういうことなんだろうな。
何も変えようと頑張る必要はない。
今を作り出している考えを
よーく観察するんだ。
今が今になっているのには
必ず理由がある。
何をどう捉えているからそうなっているんだろろ。
何をどうせねば!と思っているから
そう動いてしまうんだろう?
そこが解るだけで
自然と変わっていく。