
凸凹
全ては凸凹。
凹があれば凸があるものなんだ。
ちゃんと両方観ないと
片方だけじゃもったいない。
しかし、凹があれば凸があるものなんだで
納得行くものかどうかも吟味する必要がある。

全ては凸凹。
凹があれば凸があるものなんだ。
ちゃんと両方観ないと
片方だけじゃもったいない。
しかし、凹があれば凸があるものなんだで
納得行くものかどうかも吟味する必要がある。

行為は目に見える。
が、その行為の目的は見えない。
何のために、何を目的にしていやっているのか、
いや、そもそも目的がないのかもしれない。
行為の目的は
行為を見ているだけではわからない。
気をつけないと人は
行為が目的になってしまったりする。
結果を分けるのは行為ではなく目的だ。
どんな気持ちから、何のために
それをやっているのかが結果に大きく作用する。

時間に追われる。
期限がもう少し先だったら…と思うことはしょっちゅうだ。
しかし、その期限や時間が私たちを守る。
シンクに山盛りの食器を洗うのをあんなに億劫がっていたのに
取り掛かってみると所要時間がたった15分だった時には驚いた。
タイムリミットは重い腰をあげてくれる。
やる気が起きない時の「5分だけ」はかなり有効だし、
化粧にかかる時間を把握しておけば
慌ただしい朝も時間が読める。
優先順位は期限で決めることができるし、
夢を予定に変えるのは期限だ。
時間や期限ってありがたい。

結果は目的により、
目的は前提条件による。
つまり、そもそもの前提条件がずれていれば
得る結果もずれるということ。
例えば、妙にこだわることも、
疲れを感じなくすることも、
うまくいかないようにするといった行為にさえ目的がある。
その目的は自分の存在の確認であることが多く、
つまり、
その前提条件は
自分の存在の希薄さから来ていることが多い。
もちろん、そうとは限らないケースもあるが、
仮にそうだとしたら?と考えるだけでも価値はある。

正念場ってある。
ここぞ!という踏ん張りどころ。
私自身はある意味、
毎日が正念場的な感じも否めないけど
そんな中でも、今!という時がある。
それだけは逃したらあかん!みたな。
正念場は1つのチャンス。
他は放っておいてでも、どうにかしてでも
何としてでもクリアーせな!

嫌だと感じた。
嫌な出来事を思い出した。
もうダメだと思った。
ネガティブに感じることは事実だけれど、
感じたり思ったことに行為を委ねる必要はない。
その感じた上で
さて、どうするのかが大事で、
行為は選ぶことができ、
それはあなたのwillによる。

物事には全てと言って良いほど、
良い面とあかん面があるもんだ。
例えば、勉強することは良いことだけど
学習が進まないときはストレスで
投げ出したくなる一方、
学べる機会があることそのものが
ありがたいことも
長い目で見たときには効果的なことも
十分、理解している。
この両端を頭の中で行ったり来たりしていると
それだけで疲れてしまう。
そういったときは
良い面を自分に言い聞かせ、
ストレスをやり過ごしながら進めるという
常套手段も確かに有効だけど
第三の解決策があるとすれば、
楽しんでしまう!ゲーム性を導入する。
楽しむことは自身に巻き込まれることを避け
深刻にならず真剣にとどまり、
結構な効果を上げる。

生涯、自分の目でリアルに見ることができない唯一のものが自分。
だからか、自分は自分がよくわからない。
ただ単に諦めようとしているのか
受け入れようとしているのか。
改善しようとしているのか
逃げようとしているのか。
やってみた時にしかハッキリしない自分はいるもので
その時、後悔したらやり直したらいい。
やり直せないものなら
二度と同じ後悔を繰り返さないようにするしかない。
皆、そうやって生きている。
考えているだけでは変わらない。
やってみないことにはわからないことだらけなのだから。

エネルギーを感じるのが好き。
欲でいいから始めたほうが
何もしないよりうーんと良くて、
エネルギーが出るルートが出来れば、
エネルギーは出やすくなる。
ベストな出し方なんて考えてたら道は出来ない。
最初からベストな形じゃなくていいんだよ。
始めること。
形はどんどん変化していくから。

時代が変われば、校則も変わる。
私が高校生の時の生徒手帳には
「ボールング場に寄らないこと」風なことが書かれていて、
昔のままで書き換わってないんだなぁと思ったのを
覚えている。
高校生の娘の校則が2つ変わったらしい。
ひとつはスマートフォンの持ち込みがOKとなり、
もうひとつは整形がダメになったという。
プチ整形もダメということらしい。
おぉ…容姿が気になるお年頃だが、
整形について言及しなければならないとは。
時代が変わればルールも変わる。