楽しむ力 vol.5520
そんなに嫌ならやめたらいい。
無理してやる必要もないし、
やめたらダメなことなんてひとつもない。
リアルに辞めた未来を想像してみて!
やっぱりやめたくないと感じたなら
楽しむ工夫をしていこう。
そんなに嫌ならやめたらいい。
無理してやる必要もないし、
やめたらダメなことなんてひとつもない。
リアルに辞めた未来を想像してみて!
やっぱりやめたくないと感じたなら
楽しむ工夫をしていこう。
100キロマラソンを完走した時、
「完走したい」とか「走れるかな?」とか
私は一切、考えてなかった。
なぜ、そう思えたのかはわからないが
やれると感じていた。
できるかどうかなんて疑わなかった。
信じていたからやれたんだと思う。
出来る出来ないに関係なく、
始めるのに気乗りしなかったり、
できれば避けて通りたいといった想いが湧く時は、
対象に対して「苦手意識」を持っていることが多い。
そういった感情が「苦手意識」だと名前がつけば、
それは克服できる。
別に何をどうされた訳でもないのに妙に鼻につく、
相手のやることなすこと気に食わないといった感情が湧く時は
「妬み」を抱いていることが多い。
そういった感情が「妬み」だと名前がつけば、
それを取り扱うことができる。
その感情や感覚に名前がつきさえすれば
次に進めるんだよ。
うまくいく時とそうでない時の違いは
自己内対話にある。
うまくいかない時は
「ちゃんとやれよ」
「間違うなよ」
と厳しい自分と対話している。
一方、うまくいく時は
「半歩でも前に進もう」
「やってみるだけでも得るものはある」
と援助的な自分と対話している。
あなたの中にはどっちの自分が強く登場してる?
選択問題では選択肢が少ないほうが嬉しい。
3つや4つの候補の中からひとつを選べばいいから。
仮に選択肢が20個あったら
「これって選択問題???」と戸惑ってしまう(汗)。
一方、人生では選択肢が多いほうが自由が増し、
幸せが増すと私たちは思い込んでいる。
しかし、
選択肢のパラドクス(the paradox of choice)
「選択肢は全くないよりもあった方がいいが、
多ければ多いほどいいわけではない。」
と言ったのはアメリカの心理学者バリー・シュワルツ。
選択肢のパラドクス(the paradox of choice)選択肢が多すぎると
困惑しやすくなり、選択後に後悔しやすくなること。
試験問題で考えるとわかりやすいよね。
選択肢が多すぎると
冒頭の態度「選択問題???」とげんなりし、
あれもこれも正解のように感じて困惑し、
選んだ後も「あっちがよかった???」と
迷いや不安といった後悔が生じやすい。
あなたはこのパターンに陥ってない?
結果がどうなるかはわからない。
私たちには作用できないところもある。
ただ、やり切るかどうかは
自分だけで決めることができる。
まずは自分が作用できる範囲を
やり切ることに全力で向かってみようじゃないか。
ワーク(発揮する)→休む(頭と身体を整える)→プランニング(ワクワク)→
ワーク→休む→プランニング→・・・
と、シンプルに書けばこの繰り返し。
最高の発揮を求めるなら
その前のプランニングが大事だし、
自分にフィットしたプランニングをしようと思えば、
休む(頭と身体を整える)ターンの必要性は増す。
つまり自分の「傾向と対策」が鍵で、
ただその自分は日々、変化していて、
だからこそ自分を深く知ることが基盤となる。
悲しみがない人などいない。
希望や夢、愛があるところには悲しみがあるから。
光を持つことは同時に影を持つことだ。
ただ、悲しみの経験は私たちを研磨し、
深いところに率いてくれる。
その人がその人である所以になっていく。
所作や外見は侮れない。
自分に強く影響していくから。
ゆっくり動くだけで
丁寧な気分になってくる。
ちょっと服装に気を使うだけで
気持ちがしゃんとする。
一方で
バタバタ動いしていると忙しないし、
雑な選択は雑に拍車がかかる。
例えば、似合う服装というのは時の経過とともに変化する。
どんなに気に入った、ぴったり合っていた服でも
フィット感が無くなってしまうことがあるよね。
そんな時、今の自分に合う別の服装を探そうとはしても
似合わなくなった自分をダメだと判断したり、
古くなった服装に自分を合わせようとはしない。
服ならよくわかる。
だけど、
以前から目指していた目標や面白みを感じて始めたものの
つまらなく感じているのに、
そう感じる自分がダメだと考える人がいる。
古くなった目標に自分を合わせようとしている。
何故だろう。
服と同じで
今の自分にフィットしなくなっただけのことなのに。